#23 人と比べてガックし? 自分のデコボコを楽しむために生まれたらしい

私たちは小さな頃、なんの疑いもなく、大きな夢も小さな夢も、どちらの方が無難で叶いやすいなど比べることもなく、誰とも比べず、どれも叶う気がして、楽しくて、叶うと信じていた。そんなピュアな時期が誰でもちょびっとはあったのではないでしょうか。

でもそのうちに、とても自然な形で長いこと誰かと比べられて大人になりました。

最初はきっと身長や体重が一般的な統計よりも小さく育っているとか、大きいとか、寝返りが遅いとか早いとか。そして、そのうちにそれは勉強、運動能力、美的センス、外見、努力家、飽きっぽい、人気がある無い、陽気だ陰気だなど、比較は増え続け、陽気だと良い、陰気だと悪い。勉強が出来ると良くて、出来ないと悪い。友達が多いと良い、少ないと悪い。という良い悪いまで自然な感じで言われてきました。

すると、これまた自然な感じで
「私は飽きっぽくて、あの人のようにはなれない。」
「私は彼女より友達が少ない。それは隠さないと恥ずかしい事だ。」
「他の家族は皆頭が良いのに、私は落ちこぼれ。」
など歪んだ見方でアイデンティティーを確立してしまいます。




その歪んだアイデンティティーの確立の始まりは、冒頭で書いたように、大抵自分から自然と生まれ出た意見ではなく、両親や親せき、友人、先生や権力のある人、一般常識などから言われた一言がきっかけとなる事が多いのではないでしょうか。

その一言を言った本人は悪気などないかもしれない。彼らも生まれた時から同じ洗礼を受け続けてきた訳で、呼吸をするかのごとく自然と比較の中で生きてきたからしょうがないとも言えます。でも私たちは、繰り返し続けた思考がやがて信念となって、その人をそのように確立するエネルギーにまで成長するから厄介….えーん。

そもそも、ちょっとここで考えたい。
いったい何をもって「一般的」なんだろ?比較の基準となるものはなんだい?どこの誰さんが基準なんだい?多分その誰さんは、誰にも分からない謎の存在。

ある時、まだ娘が保育園に通っている頃、絵を描きながらこう言いました。「あんまり、うまく描けないなぁ….」彼女は私の顔をチラッと見ながら、そのあとの言葉を続けようか迷っているようでした。多分、その後続けるとしたらこんな感じだったでしょう。「私は絵が上手くない」

でも、私はその絵がとても気に入りました。確かに誰が見ても上手だと感じるかは分かりません。誰もが気に入ってくれるかと聞かれればそれは難しいかもしれない。でも、私はその絵がとても好きだったし愛おしく感じている事は事実。であれば、それで十分ではないのかなぁ。と思うのです。



(これがその時の絵。太めのトーキョータワーにちょっとハゲあがった肩がイカつい私が逆に新しい。キリンに関してはただただ癒し)


だから続けて私は言いました。「そうかな。ママはとってもお気に入りだけどね。ママは額に入れて部屋に飾るよ。それに、どんな絵を描いたら上手い事になるのかね?100人に聞いて80人くらいが上手いと言ってくれたら上手いのかなぁ?でも、その上手いと言われた人が次に描いた絵を、今度は1人しか上手いと言ってくれなかったら、その人はどうなるのかな?ママは楽しいならそれが一番なんじゃないかと思うけど、どう思う?」

私は娘にラベルを貼りたくはありませんでした。娘自身が、シンプルに絵を描くという事にワクワクを感じて、良い気分であるのなら、それ以上素敵な時間と体験は無いと思ったのです。さらに、誰か1人でもそれが好きと言ってくれる人がこの世界にいるのなら、さらに素敵なことです。だって、自分以外の誰かを良い気分に出来たのだから上出来、上出来。



私たちは多くの人に共感してもらわなければ、それはちっぽけで意味がないと感じがちです。だからこそ、「一般的」のラインを越えて、「優れている」というスタンプを沢山集めなければまるで自分には価値が無いように感じてしまうのかもしれません。

でも、そうすると必要のない苦しい頑張りが “ヨッ!”っと顔をだす。

私たちは好きなことであれば、無理なく時間も忘れ夢中になれるのに、興味のない事はいくら自分を奮い立たせようとしても、途中で必ずと言っていいほど続かなくなります。辛い気持ちが湧き出てきます。それは本来自分が頑張るところではないから、なのかもしれません。

それを補うようにその部分を得意としている人、興味を持っている人がいて、互いに無意識のうちに補い合っている。これが本当は一番スムーズで美しい流れなんじゃないかなと思うのです。






私たちは、人と比べると必ずと言っていいほど落ち込むシステムを、どうやら搭載しているようです。100人いたら100人が違った魅力なので、比べるというのは全く意味のないことなのだけど、その事をいつの間にか忘れてしまったのかも。それは、小さな頃から繰り返された世間の比較グセが、細胞にまで染み込んでしまった結果なのかもしれません。ギエー….

特にSNSなどで簡単に人と比べることが出来る世界だからこそ、この事に気が付かなければどんどん苦しくなってしまいます。”私”と言うかけがえのない独特なキャラクターを抑え込んで、認めず愛さずで、一体だれが本当に私を好きでいてくれるんだろう?もし仮にいたとしても、自分自身が自分に対して満たされた気持ちでない以上、苦しさは拭えないのかもしれません。





また、自分の外見についてもついつい人と比較してしまいますよね。それはそれで人間だから仕方なし。だけど、やっぱりそれはそれでなんだか辛い。だから、やっぱり、結局は、自分は自分を大切にするってところに戻ってくるのかもしれません。

でも、それって案外難しい。力技でなんとかなるものではないからです。じゃあ、どうすんねん….ここでもまたもやマインドフルネスが活躍する訳です。まず、人との比較癖に気が付くというのが大きなファーストステップです。(あ、、また比較してたな)と立ち止まれれば素敵な変化の始まりです。

そして、その次には比較しそうになったら “……とはいえ、私はここがなかなか良いところだな ” と1mmでも自分を良い気分にさせてあげる思考を取り入れてみる。コツは小さく始めることです。明らかに自分でそう思ってないことを言ったり考えようとすると、今までの思考が “…は?何言っちゃってんの。んな訳ないやんけ ” と全力で言ってくるからです。

気づいて、小さく思考を変える。これを日々コツコツと繰り返していくのみです。とても地味でシンプルだけど、染み込んだ思考パターンは新しい思考を繰り返すことでひっくり返す事が可能です。



例えば、夫はとっても几帳面なのですが、私は大雑把でマメじゃないタイプです。3日坊主ならまだしも、2日坊主にもならない事もあるし、ざっくりと適当なことばっかり言って多分、家族の信頼がありません笑 それが本当に私のダメなところ。と自分に嫌気がさす事も良くありました。

でも、ある時、(待てよ、もし私もとっても几帳面だとしたら、彼は逆に心地悪く感じたりはしないだろうか?自分がやろうとしている事を違うやり方でキッチリやられたら何だかどうだろう…..それにそうだとしたら、こんなひょうきんな家族として成り立っているだろうか?もっとギスギスしないだろうか。)と思いました。

もしかしたら、私がちびまる子ちゃんみたいだからしっかり者の夫はその長所が発揮されて、家族も助かるし、彼が静かなタイプだから私がよく分からないギャグとか連呼して笑いが起き、家庭の空気が楽しくなっているんじゃ…..だとしたら私、このまま大雑把でマメじゃなくて、ちびまる子ちゃんで、ギャグとか言ってるのがここでは一番適切なんじゃないか…! こんな思考を繰り返しているうちに、この思考の方が優勢となり、なんだか気楽になって自分が愛おしく感じられるようになったのでした。




暇さえあれば、こんなことばかりしてさ….


私たちはみんな、パズルのピースのように凸凹をもって生まれてきました。それはなぜかと考えてみると、世界中の人々、動物や自然、全てのピースが合わさって、私たちの生きるこの世界が一つの美しいアート作品になるからじゃないかなと思います。

互いに凸凹を埋めあっていく。数字が苦手な人がいるから、得意な人はそれが仕事として成り立ち、学びたい人がいるから、教えたい人はイキイキし、飽きっぽい人がいても、コツコツ頑張るタイプの人がサポートしたり、料理が苦手な人がいるから、得意な人が作ったものを美味しくいただく。などなど





そんな感じで、きっと自分の長所は誰かの役に必ず立っていて、短所も誰かの長所が発揮されるために役に立っているはず。短所・長所、苦手・得意という仕分けで終わってしまっては、あまり心地よさを感じないけど、こうやって考えたら私たちは丸ごとがユニークなパズルピースで。
あなたはこのままで完璧なピースだし、あの人もこの人もユニークなパズルピースなのかもしれませんね。





身につけて、さらにゆるもう
figのジュエリー




