#35 私たちはデコボコだから楽しい(人と比べると落ち込むシステムなのです)

私たちは生まれてしばらくのまっさらなマインドの頃、あらゆる可能性を信じて、一人一人が目をキラキラさせていました。大きな夢も小さな夢も、どちらの方が無難で叶いやすいなど比べることも無くどれも叶う気がして、楽しくて、誰とも比べず楽しんでいました。

でもそのうちに、とても自然な形で長いこと誰かと比べられて大人になりました。

最初はきっと身長や体重が一般的な統計よりも小さく育っているとか、大きいとか、寝返りが遅いとか早いとか。そして、そのうちにそれは勉強、運動能力、美的センス、外見、努力家、飽きっぽい、人気がある無い、陽気だ陰気だなど、比較は増え続け、陽気だと良い、陰気だと悪い。勉強が出来ると良くて、出来ないと悪い。友達が多いと良い、少ないと悪い。という良い悪いまで自然な流れのように決められました。

すると「私は飽きっぽくて、あの人のようにはなれない。」
「私は彼女より友達が少ない。それは隠さないと恥ずかしい事だ。」
「他の家族は皆頭が良いのに、私は落ちこぼれ。」
など歪んだ見方でアイデンティティーを確立してしまいます。

その歪んだアイデンティティーの確立の始まりは、大抵自分から生まれ出た意見ではなく、両親や親せき、友人、先生や権力のある人、一般常識などから言われた一言がきっかけとなる事が多いのではないでしょうか。その一言を言った本人は悪気など無いかもしれませんが、彼らも生まれた時から同じ洗礼を受け続けているため、呼吸をするかのごとく自然と比較の中で生きてしまっているのです。そして人は繰り返し続けた思考がやがて信念となりその人をそのように確立するエネルギーにまで成長します。

そもそも、何をもって「一般的」なのでしょうか。比較の基準となるものは何なのでしょうか。どこの誰さんが基準なのでしょうか。多分その誰さんは、誰にも分からない謎の存在です。

ある時、まだ娘が保育園に通っている頃、絵を描きながらこう言いました。「あまりうまく描けないな、、。」彼女は私の顔をチラッと見ながら、そのあとの言葉を続けようか迷っているようでした。多分、その後続けるとしたらこんな感じだったでしょう。「私は絵が上手く描けない。」

でも、私はその絵がとても気に入りました。確かに誰が見ても上手だと感じるかは分かりません。誰もが気に入ってくれるかと聞かれればそれは難しいかもしれません。でも、私はその絵がとても好きだったし愛おしく感じている事は真実です。であれば、それで十分ではないのかな。と思うのです。

だから続けて私は言いました。「そうかな。ママはとってもお気に入りだけどね。ママは額に入れて部屋に飾るよ。それに、どんな絵を描いたら上手い事になるのかね?100人に聞いて80人が上手いと言ってくれたら上手い事になるのかね?でも、その上手いと言われた人が次に描いた絵を今度は1人しか上手いと言ってくれなかったら、その人はどうなるのかな?ママは楽しいならそれが一番なんじゃないかな。と思うけれどどうだろう。」

私は娘にラベルを貼りたくはありませんでした。娘自身が、シンプルに絵を描くという事にワクワクを感じて、良い気分であるのならそれ以上素敵な時間と体験は無いと感じるからです。さらに、誰か1人でもそれが好きと言ってくれる人がこの世界にいるのならさらに素敵なことです。だって、自分以外の誰かを良い気分にする貢献まで出来たのだから。

私たちは多くの人に共感してもらわなければ、それはちっぽけで意味がないと感じがちです。だからこそ、「一般的」のラインを越えて優れているというスタンプを沢山集めなければまるで自分には価値が無いように感じてしまうのです。

すると必ず陥ってしまうのが、必要のない苦しい頑張り。放っておいても私たちは好きなことであれば無理なく時間も忘れ夢中になります。やりたくて、やってあげたくてウズウズします。

ところが、興味のない事はいくら自分を奮い立たせようとしても途中で必ずと言っていいほど続かなくなります。辛い気持ちが湧き出てきます。それは本来自分が頑張るところではないのです。それを補うようにその部分を得意としている人、興味を持っている人がいて互いに無意識のうちに補い合っている。これが本当は一番スムーズで美しい流れなのですね。

私たちは人と比べると必ずと言っていいほど落ち込むシステムです。それは100人いたら100人が違った魅力なので、比べるというのは全く意味のないことなのですが、その事をいつの間にか忘れてしまいました。それは小さな頃から繰り返された世間の比較グセが細胞にまで染み込んでしまったのです。

特にSNSなどで簡単に人と比べることが出来る世界だからこそ、この事に気が付かなければどんどん苦しくなってしまいます。私と言うかけがえのないキャラクターを抑え込み、認めず愛さずで、一体だれが本当の意味でずっとずっと私を好きでいてくれるでしょう。もし仮にいたとしても、自分自身が満たされた気持ちでない以上、苦しさは拭えません。

また、自分の外見についてもついつい人と比較してしまいます。それはそれで人間だから仕方も無い事ですが、この命を与えてくれた大きな存在(それを神と呼んだり宇宙と呼んだりそれぞれですが)は、このそれぞれの”私”をとても気に入っています。だから私たちがそれとは違った思考を使うと、意見がマッチしないので気が塞ぎます。ですが私たちが1mmずつであっても、思考を緩めてあるがままの自分を受け入れて好きになると、意見がマッチするのでとても気分が良くなってきます。

それにはまず、人との比較癖に気が付くというのが大きなファーストステップです。(あ、、また比較してたな。)と立ち止まれれば素敵な変化の始まりです。

そして、その次には比較しそうになったら「、、、とはいえ、私はここがなかなか良いところだな。」と1mmでも自分を良い気分にさせてあげる思考を取り入れてみましょう。

これを日々繰り返していくのみです。とてもシンプルですが、染み込んだ思考パターンは新しい思考を繰り返すことでひっくり返す事が可能です。

例えば私は大雑把でマメじゃないタイプです。3日坊主ならまだしも、2日坊主にもならない事もあるし、ざっくりと適当なことばっかり言って多分、家族の信頼がありません笑 それに比べて夫はとっても几帳面。そして、それが本当に私のダメなところ。と自分に嫌気がさす事も良くありました。

でも、ある時、(待てよ、もし私もとっても几帳面だとしたら、主人は逆に心地悪く感じたりはしないだろうか?自分がやろうとしている事を違うやり方でキッチリやられたら何だかどうだろう。。それにそうだとしたら、こんなひょうきんな家族として成り立っているだろうか?もっとギスギスしないだろうか。)と思いました。

もしかしたら、私がちびまる子ちゃんみたいだからしっかり者の夫はその長所が発揮されて、家族も助かるし、彼が静かなタイプだから私がよく分からないギャグとか連呼して笑いが起き、家庭の空気が楽しくなっているんじゃ。。だとしたら、、私、、このまま大雑把でマメじゃなくてちびまる子ちゃんで、ギャグとか言ってるのがここでは一番適切なんじゃないか、、!! こんな思考を繰り返しているうちに、この思考の方が優勢となり、なんだか気楽になって自分が愛おしく感じられるようになったのでした。

私たちは例外なく、パズルのピースのように凸凹をもって生まれてきました。なぜかと言えば、世界中の人々、動物や自然全てのピースが合わさって一つの美しいアート作品となるからです。ピースが合わさるとはどういう事でしょうか。それは、互いに凸凹を埋めあっていくという事です。要は、数字が苦手な人がいるから、経理の仕事は成り立ち、学びたい人がいるから、教えたがりの人はイキイキし、飽きっぽい人がいるから、コツコツ頑張るタイプの人がやりがいを感じられたり、料理が苦手な人がいるから得意な人は腕が鳴ってみたり。収集好きの人がいるからコレクターうけする商品の需要があったり。

それはどんなことであってもコインの表と裏、陰と陽のように存在しているし、その必要もあるのではないでしょうか。あなたの長所は誰かの役に必ず立っています。そしてあなたの短所も誰かの長所が発揮されるために役に立っているのです。短所・長所、苦手・得意という言葉にはあまり心地よさを感じないかもしれませんが、あなたという神聖なパズルピースの個性なのです。それはとっても愛おしくてユニークなのです。

あなたはこのままで完璧、あの人もこの人も完璧なのです。

良い気分になるアイディア

関連記事一覧

  1. この記事へのコメントはありません。